2023抗加齢医学会総会へ マイナンバー・LGBTに私見を少し
ところでこれまでにも書いてきたワクチンを始めとした日本で生じているおかしな世情の流れですが、今もって一度も疑った事のない患者さんもおられ、マスコミなどの情報の威力には根強いものがあると感じます。一度くらい反対の情報を聞いても、自ら吟味して本当に府に落とさない限り心底理解はできませんし、恐れを避けようとするのが人の性ですから、私に出来ることは、ご縁のある方に示唆・ヒントのようなものを提供するくらいかと考えています。ただ以前から「我よし精神」という表現でいろいろ書いてますが、自分に生じる出来事に関わらず、この精神の洗濯(自覚・自省)を肝に銘じなければ、情報の大海に飲み込まれがちになります。逆に洗濯が進めば、レンズの曇りも取れてありのままの視界が広がってくるんでしょう。しかしながらLGBTに賛成した議員さんたちは、「我よし精神」という点では課題が多い方々ばかりのようですね。内容云々の前に、法律が増える国家というのは幸福な国ではないという大前提を理解する必要があります。法律は必ず二元対立を助長します。現実世界に生きている以上二元的現象は避けられませんが、その分離をカバーするのは相互理解であり、同じという意識、精神的な側面です。さらに「法律」で重要な点をいくつか書かせてもらうと、誰がどのような意図故にその法律を作ろうとしているかという上側(議員さんたちをも動かすさらに上層)の意図(我よし精神)です。現在保険証廃止へと進んでいる話も、「我よし精神」真っ盛りで、マイナンバーカードの免責事項を見れば、日本人のためではないのは明らかです。どんな不都合があっても”カードを作ったあなたの責任ですから”というスタンス。そして法律とは出来てしまえば、現場で動き出し、先ほどの上層の方々は表舞台に現れずとも、どんどん意図した方向に物事は進んでいきます。そして5年先、10年先など時間が過ぎてから大衆がその危うさに気づくようになっても、気づいた時は「時すでに遅し」というパターンです。米国からの年次改革要望書の通りに、事が実現していっている事実からも同じ流れが伺えます。国会議員さんたちがなぜそうなるのか?一人ひとりの中にある「我よし精神」が、上層のさらに強力な「我よし精神」と縁が繋がってしまうと言えます。もちろんこれは私たち一人ひとりにも当てはまる事で、日々生活はしていかねばなりませんが、個々にあった形で、この「我よし精神」の洗濯をしていかねば、時間的経過とともに難が大きくなってしまいます。国民の集大成が日本ですから、時事的なものへの洞察は必要だとしても、日々の生活の中で自らを自覚・自省することが優先事項であるのには変わりがないかと思います。LGBTについてもYoutubeやニコニコ動画などのメディアでもいろんな視点・情報が発信されているようですが、私は「秩序」という視点が最も大切だと見ています。秩序とは立体的表現を借りるなら、縦と呼べるもの。人と人もですが、繋がりにはこれまた立体的表現を使うなら、横と縦があります。家庭一つとっても、よく父親を大黒柱とか言いますが、親と子、夫と妻、そこにある「秩序」故にそこに有機的立体と呼べる形ができます。もしお上が家族一人一人をもナンバーで管理し相互に秩序がない集団だとしたら(今進んでいるのはその流れ)、パワーの出ない集団(家庭でも国でも)・愛や尊敬に縁のない集団に変貌していくのは想像できるのではと思います。横と縦の話の流れで、さらに書いておきますと、この横と縦、まずは個々人自らがスタートではないでしょうか。簡単な例を書いておきます。もし道端で財布を拾い、10万円入っているとします。縦が入っているということは、「落とした人が困っているに違いない、交番に届けてあげよう」という自分の中にある精神的支柱、本心良心に沿って動くという姿で、我よし精神の洗濯の流れの中で、自ら霊(心)主体従を体現しているという姿です。それとは逆に「10万円儲かった」という物質的側面(現象的側面)・二元の相対的側面だけで反応しているのが横だけの姿です。先ほどの国会議員の方々の姿をこの点から洞察してみると、見えてくるものがあるかと思います。昨今の外国人の雇用や参政権の問題も、「秩序」という視点から眺めると日本にとっていかに重要な課題かということが見えてきます。
新しいホームページになって動画を張り付けることはしてませんでしたが、今回2つほどあげてみます。及川さんは通常、海外の出来事を配信されることが多いのですが、わが国日本についての内容でしたので、並々ならぬ思いだったんだろうと思います。彼が所属している団体に思い入れがあるわけではなく、及川さん自身の人柄・信念は以前ご紹介した馬渕睦夫(元外交官・作家)大使と同じで、縦軸のブレない方のようですので、情報として参考にしています。
マイナンバー保険証をボイコットしよう(2023.6.5)
日本人が知らないLGBT法案の先は(2023.6.15)
話は戻りまして、冒頭に書いた学会総会での長寿者研究の続きです。長寿者のメンタルについての報告があり、70代くらいの方は年を重ねるごとに幸福度が下がる流れがある一方で、100歳を超えるセンチナリアンの方々は日々を心地よく生活されている方が多いようです。ある方の書初めの変化を提示されており、90歳前には自分の話題が書初めのテーマでしたが、90歳を超えると「一日一善」へ変化し、100歳越えでは「世界が平和であるように」と変化していました。演者の先生は「老年的超越」と表現されていました。はたして歳をとるだけで超越が起こるのでしょうか?以前から認知症診療をしていますが、意識の覚醒度が低下し認知症が進むにつれて、金取られ妄想を含めた固定概念の中に嵌ってしまう方が多いのも現実です。肉体的老化が訪れるからこそ、自分とは何かという理解への誘いも起こると言えるのでしょうが、高齢になるにつれてその自覚が生じにくいのもまた事実かと思います。私は禅をやっていまして、その方面では知る人ぞ知る井上義衍老師という方がおられます。老師の「迷いと悟り」という本の中から、語られた内容を少しご紹介します。
「根底がしっかりしていれば、心境というのはますます進むんじゃないですか。根底に疑いがあると、齢をとればとるほど疑いが深まっていくんじゃないですか。先が近くなればなるほど、よけいあせるから、疑いに疑いを重ねて、「どうすべきか」と苦しむようになるんです。ですから早くから根底を知る必要があるんです。根底さえわかれば齢をとるにつれて、縁に触れれば触れるほど、自然にほぐれていくんです。ああ、そうかということが分かると、いろんな問題で苦しむたびごとに、ああそうかそうかとほぐれてくるんです。まるで、積んである大きな石垣が、ガラガラと崩れていくように、いっぺんに事柄がほぐれていくもんです。」
老師は、心の境涯というのは年を重ねるごとに進むものかという問いかけに対して、このように応えておられます。赤子の時から凝り固まった考えを自覚し、いったん手放す。その出来不出来で、人はどちらにも転びうるということなんでしょう。高齢になっても可能性は残されていますが、他力本願だけでは困難と言えるのではないでしょうか。
さてブログを書いている今は、明日の研究会参加を前に京都まで足を運んでいます。またブログでご紹介したいと考えています。